よくある質問
初対面の人に、僕のこれまでの経歴とこれからの展望についての話題になったとき、しょっちゅうされる質問があります。
今日はそれらの質問について、僕なりの意見をまとめます。
やっぱり、変な人とかいるんですか?
そりゃいるでしょうね。笑
変とは語弊があって、ユニークとか、面白いというか、対面すれば個性ともとれるものなので、外から見たり聞いたりするよりかはもっと楽しいものです。
(僕の視点については、過去の記事を参照してください。)
なんでそんなところで働きたいと思ったんですか?
「そんなところ」とはとっても気にくわない表現ですが、深い質問ですね。
僕はもともと、精神医学や精神科医療というより、精神疾患自体に興味がありました。
いろんなことがあって看護の道に進んだのですが、その中で精神科看護とは、患者さんとの距離も近く、自分の興味を深めていけそうだと感じました。
これに関してざっくりいうとこんな感じですが、実際はいくらでも話したいことがありますね。
気持ち的に巻き込まれたりしないの?
しません。
もちろん、「患者さんがどんな思いをしているのか」ということに対して共感するというのは基本として行います。
が、それと自分の感情とは別物なので、巻き込まれることはないですね。
文字にするとどうしてもすっごく冷たい人になってしまうのですが、これは重要な姿勢だと思っています。
なぜなら、その患者さんの治療経過における主役は患者さん自身で、僕たち医療スタッフではないからです。
僕たちの気持ちが巻き込まれるというのは、わざわざ脇役が目立ったり、さらには主役の座を奪ったりするのと同じ行為だと思います。
主役は患者さん、ということを念頭におくと、少し冷たさも軽減されますかね…?
そういえば似た質問で、
「自分も精神科に興味はあるんですけど、気持ちが強くないので、巻き込まれないか心配です。」
という相談を受けることがあるんですが、これも同じように、あくまで治療経過の中の主役は患者さんなので、治療者が無理やり主役に躍り出る必要はないのかなぁと思います。頑張ってください。
〇〇っていう映画に出てくる、かなりサイコな連続殺人犯がいて、知ってます?どう思います?
いや知らんし。笑 どうとも思いません。笑
そういう映画は、そういう風にグロく怖く脚色してるから怖くなるのは当たり前だし、実際にあった事件を基にしていたとしても、ほっとんどの患者さんがそんな人ではないです。
総評
基本的にネガティブな質問ばかりで、答えるのが嫌ではないんですけど、精神科=怖いのイメージが強いんだなぁと思います。
初対面の人と、もうちょっとポジティブな話題で親しんでいけるようになりたいなーと思うこの頃でした!
文化的活動は非日常のままでいいのか?(3/3)
一旦の最終です。短いです。いろいろな読み方があると思います。
根源性欲求の復興
根源性欲求と概念性欲求との互換性により、一度失われた根源性欲求を復興させることができる。
非日常に置かれた文化的活動を、概念性欲求により日常の中に取り入れる。他者関係の中で、一部ではその活動が、根源性欲求を満たすことになる。その人の中で、根源性欲求は日常のなかで満たされるものとなる。
生きることとは何かという問い
日常の中で満たされる根源性欲求により、生きることとは何かという問いに対する、極めて流動的、相対的な解が、日々もたらされることになる。
この解とは何か。ひとつ想像するに、過去を残すことであると推測する。世界の完成の過程としての過去を残すのだ。ただ世界の完成のために。
将来のため、文化的活動を日常のなかに取り入れるべきだ
先に述べた通り、現代を生きる人々が根源性欲求を満たすことは、残念ながらできない。しかし将来の世代に対して、根源性欲求を備え付けることは可能である。
方法は、現代の人々が概念性欲求を満たし続けることである。非日常の生活の中で、今日限り取り入れてみるだけで済ますのではなく、日常の中に文化的活動を取り入れていくことを続ける。
実体のない「生きること」への解は、こうした環境の中で、再び自然に生まれる。
文化的活動は非日常のままでいいのか?(2/3)
昨日の続きです。今日はちょっと極論かもしれません。
根源性欲求と概念性欲求
非日常に追いやられ、さらに非日常からも排除されゆく、そんな「都合の悪いものたち」は、なぜ元来の人間にとって重要だったのかを考えていく。
そこで、これから扱う2種類の欲求について定めておく。ひとつは、根源性欲求。ここでは、人間の無意識のうちにある精神的活発と、それを表現しようとする意欲のことをいうこととする。もうひとつは、概念性欲求。これは根源的欲求の対照的なものとして扱え、根源的欲求によって満たされることがらについて知ることで、意識的に精神的活発を満たしたいと思う欲求のことをいうこととする。いわば、根源性欲求よりも後に得られる、好奇心によりくる表現への意欲だ。
文化的活動は、古代より根源性欲求を満たすものとして日常を添え、極めて感覚的、流動的な「生きること」への解を与え続けていた。
根源性欲求は、もはや感じることができない
しかし、現代の日本社会の中では、その根源性欲求を感じたり、満たしたりすることはできない。理由は先に述べたように、文化的活動は積極的な排除の対象だからだ。この社会の中でも、文化的活動は行えている、という反論もあると思うが、それにより満たされるのはあくまでも概念的欲求なのだ。概念性欲求の源は経験からくる意識的なものなので、「生きること」への解を授かることは残念ながらできない。
根源性欲求を抱くためには、生来からの文化的活動により与えられる、無意識界での欲求の基地を持っていなければならない。
概念性欲求の根源性欲求との相同性と互換性
概念性欲求を満たすことで得られる充足感は、根源性欲求とよく似ている。意識的な部分で受ける感動は、ほとんど相違ないと主観的には見なせ、生活上その違いを気にすることはない。この2つの欲求を区別する必要性はどこにあるのかと、疑問に思う人も多いかもしれない。
違いはただ、無意識の中での欲求か否かだ。概念的欲求を満たせているだけでも、意識下での幸せの中に暮らすことはできるのだ。
重要な性質として、概念性欲求からくる文化的活動は、根源性欲求をもつ他者に根源性欲求を満たすことができる。間に立つ文化的活動は、それ自体が意味を与えるのではなく、受け取る側がそれぞれの欲求に当てはめるのである。
文化的活動は非日常のままでいいのか?(1/3)
更新がしばらく途絶えていました。ご無沙汰しております。
大学生活が始まり、レポート課題とアルバイト、オンライン会といった具合で、基本的には家にいながらも、かなり満ち足りた生活を営めています。
久しぶりの大学の講義はかなり面白くて、新たな発見や想像力を掻き立てるものばかりです。その中で特に気に入った物ごとについて、3回に分けて考えていきたいと思います。
ちょっといつもより真面目テイストです。臨場感のために、本文中では常体になります。
非日常としての文化的活動が注目を集めている
生産的な活動ばかりが、日常をつくっている現代日本において、文化的活動は非日常、二の次のものである。しかし、経済活動が厳しく制限されている今、自宅でできる、芸術をはじめとする文化的活動に注目が集まるようになってきた。否定的な表現をするならば、経済を止めることでしか、文化的活動に目をつけられなくなっていたのだ。
なぜ文化的活動は、現代日本において二の次、三の次になっていたのか。
現代日本の成り立ちにこそ原因がある
近代から現代に至るまでの日本の社会を考えると、いかにして文化的活動が追いやられたかを理解することができる。
封建社会体制を貫いてきた日本は、第二次世界大戦での敗戦により、民主主義社会のペンキを塗られた。その後の高度経済成長期に、短い期間のうちに、「豊か」になる必要があった。それを満たすため、人々は生産性と金銭的な豊かさだけを追い求めるようになった。これらの要素だけが、「日常」として残される事になったのだ。一方で、元来は人間の日常にあり、精神的根幹を支えてきた芸術や儀式、宗教、死といったものは、生産的ではないものとして、排除されるようになった。日本人の根源的欲求は、生産性と金銭的な豊かさにすりかわってしまったのである。
生産的でないものは都合が悪い
さらにたちの悪い事に、元来の人間の精神的根幹を支えてきたものたちに対し、「都合の悪いもの」として徹底的に排除しようという、静かな運動が起き続けている。非日常に追いやられたとしても、余暇に癒しを与えてくれたり、亡くなった人をきちんと弔い、見送る側の心をすっきりさせたりすることはできる。欲張りなことに、どうやら誰かがその非日常すらも奪い、日常のみからなる生活にしようと働きかけている。そんな力さえ感じる。
儀式や宗教、芸術については、「異文化で下らないもの」として徹底的に排除しようとする。それぞれが本来もつ、正の要素を味わわせることなく、時に負の様相を呈した時に、徹底的に攻撃する。さもそれらの負の様相が、それらの全てであるという風に解釈を強いてくるのである。
死者を弔うための食人文化をもつクールーの間でプリオン病が流行したこと、新興宗教団体によるテロ事件、そしてライブハウスはウイルスを極めて「効率的」に拡散したこと…こうした出来事は、儀式、宗教、芸術の象徴として刷り込まれるようになったのだ。(続く)
医療がドラマになる理由
私ごとですが、大学の授業が遠隔方式ではありますが開始し、早速医学部の洗礼を受けて、ブログの更新頻度が落ちに落ちています。たまーに、たまーにでいいんで、ちょっと覗いてみるか、くらいで読んでくれたら嬉しいです。
この勉強地獄に立ち向かうため、今日は自分の将来へのモチベーションを高めているある出来事について、思い返したいと思います。
医療ドラマ、多くね?
昔から医療現場を舞台にしたドラマは多いですが、最近なにかと多いですね。診療科による棲み分けこそなされていますが、同時期に4つ5つの医療に関するドラマが放送されていた時期もありました。
なんでこんなにも、医療を題材に、ドラマを作るのかなーと疑問に思ったのですが、自分の働いていた場所のことを振り返ってみると、「ドラマ多かったな、キャラクター豊かだったな」と感じました。
精神科の登場人物
患者さんも面白い経歴をもつ方が多かったのですが、働くスタッフも、なかなか個性豊かな人ばかりでした。精神科ということもあり、人間観察が好きな人、哲学的、時には神学的な要素の強い人も中にはいて、自分の担当患者さんのカルテを見ると、たまにとんでもなくスケール感の大きい話(宇宙とか、形而上とか。)で話している先生もいて、それを読むのがささやかな楽しみでもありました。
退職直前の患者さんとのやりとり
そんな数ある「ドラマ」の中から、僕の中ですごく大きく残っているエピソードについて、紹介します。身体的な理由で、ベッド上安静になった患者さん(Aさん、としておきます)に、保清をしている時でした。
A「とく、先生になりたいん?』
僕「えーーー、ちょっと誰から聞いたんですかそれ。笑」
A「えっとな、B先生やったっけな?」
B先生は、再受験で医師になられた初期研修医の先生でした。精神科志望先生だったので、僕をはじめ精神科スタッフとも個人的な話もしていました。
僕「まじかー、めっちゃ個人情報やんそれー。笑」
A「でもな、先生が言うにはなー、なりたい人の2%しか、(医師に)なられへんらしいで」
Aさんは満面の笑みで、ピースをしながら、僕をからかう。
僕「えーー、そうなん。(2%ってほんまかいな、どこ情報やねんそれ…笑)そりゃ、頑張って2%に入らなあかんな。」
保清を続ける中、患者さんはピースをし続け、僕をからかい続ける。
しばらくして、
A「…頑張ってな、日本一の先生になってな。」
僕「え、、、(もう泣いてる)」
A「日本一ちゃうな、世界一やな」
ダーーーーーーーーーーッ。。。。
ーー保清が終わり、
僕「明日、夜勤で来るからな!たぶん僕が担当やわ。明日で最後の勤務やねん。よろしく!」
この後の夜勤で、Aさんはシーツまで溢れ出る多量の便失禁をし、僕の最後の大仕事となったのだった。
医療がドラマになる理由
それは、脚色なしに、医療現場はドラマで溢れているから。
病院は医療を提供する場ではあるけれど、それをひとつの「ツール」として、人と人とが深く繋がり合う、そんな副産物もあります。
勉強はたしかに辛いけど、この出来ごとを思い返して、頑張ろうと取り組めたし、大学に入学することができたし、これからも単位を掘り当てる旅の中で、このことを思い返してエネルギーとしていきたいです。
ああ、
恋つづみたいなことが、起きないかなー。。。
閉じ込められた人たち、つながりを求める
外出自粛により、過去に経験したことのない日々が続きますね。
たまにスーパーに買いに出ても、人は少ないし、中にはマスク、手袋、サングラスの人が(ただし髪の毛は「ねっとり」)、ビクビクしながら買い物かごいっぱいの除菌・消毒用製品を抱えて、他の客からも逃げるようにしているおじさんとかもいますね。(精神科にかからせたい気もする。)
不安からくる強迫的な行動により、とうとうカ○キラーで手や衣服を洗うようになった人とかもいたので、こういった人たちが調子崩さなければ…と思う今日この頃です。
自宅にいることが、ストレスに感じるのはなぜ?
外出自粛のため、基本的には自宅で過ごすような生活を世界中で強いられているなか、どうにもストレスを感じている人が多いですよね。基本インドア派の人も、なぜかこうやって自粛を命じられたり、要請されたりすることによって、家に居続けることに関してうずうずする日々を過ごしているようです。不思議な話。
なぜ、このような現状があるのか、考えようと思います。
集団的性質によるもの
社会学的、心理学的、生理学的…いろんな角度から説明される、「ヒトは本来集団で生活する生き物であること」が影響しているんだろうと、すぐさま浮かびますよね。
倫理学的にも、和辻哲郎の「間柄的存在」に表されるように、全く自立した人などいない、と考えられるのが一般的です。
ごく稀ーーに、こうした理屈を捏ねて、「だから、ご飯でも行かない?」というアホがいるんですよぉ〜。
やっちまったなあ。
集団から物理的には離れることとなった私たちは、生理的に孤独から不安を感じ、自ずとそわそわ〜っとしてくるんだと思います。これはベタだけど、確実な点。
強制的な「新生活」状態
入学、就職といった新生活には、ワクワク感と共に、不安がつきものですよね。自粛生活は、様式は一変するのに、ワクワク感は一切なく、見通しの立たなさがさらに不安を煽ってきます。
ホテルとかで熟睡できないことをイメージしてみると感じ易いと思うのですが、やれ手続きやらなんやらが気になっていない状態でも、変わった環境で生活することは無意識的にもストレスになっているのだろうと思います。
どうも私たちは安心して過ごせる「日常」を求める癖があるので、そうしたことが叶わないのがストレスなのかなと思います。
あと、この生活を自分の意思ではなく「強いられていること」も大きく関係していると思います。
メディアが不安を煽る
しかも、家にいることでついつい試聴時間が長くなるテレビ。こいつも危険。社会不安をさらに煽るような「専門家」が多いことが問題。
あんまりこういうことは言いたくないんですけど、たまにふと見たときに「はあ?」と感じることが多々あるので書いちゃいました。
テレビをつけることで、部屋の中はまさに「不安のロウリュウサービス」状態。
これはまさに、不安の煽り運転やー!
不安を良い方に使おう
こういった要因から、外出自粛とともに、不安とストレスを抱えに抱えている状態が続いているのだろうと感じます。一番は、見通しの立たなさもありますね。
で、何が言いたいのかというと、不安をバネに、良い方向へと転換するチャンスにしたいということ。
不安に駆られた挙句、自分以外の全てが不潔でウイルスに侵されているのではないかと考えるようになり、汗びっしょりで髪も滑っていることにも気づかず、消毒に一日中とらわれてしまっている人も、少なからずともいると思います。
そうではなく、不安を解消するためにできることを模索すること、これがとってもとっても大事だし、もしかすると私たちの生活の転換点になりうるかもしれないと思います。
SNSでの'Stay at Home'活動、オンライン通話など、物理的には離れていても、ネット上で繋がれる。こうした方法への注目がすごく高まっていて、いろんなサービスが展開され始めている。
「コロナ明け」には、つながり方のシンギュラリティが起こっているかもしれませんね。