こころ と あたま

精神科看護師を経験し、将来は精神科医を目指して今春から医学生になる僕のつぶやきです。概ね私見なのでご承知願います。

閉じ込められた人たち、つながりを求める

外出自粛により、過去に経験したことのない日々が続きますね。

たまにスーパーに買いに出ても、人は少ないし、中にはマスク、手袋、サングラスの人が(ただし髪の毛は「ねっとり」)、ビクビクしながら買い物かごいっぱいの除菌・消毒用製品を抱えて、他の客からも逃げるようにしているおじさんとかもいますね。(精神科にかからせたい気もする。)

不安からくる強迫的な行動により、とうとうカ○キラーで手や衣服を洗うようになった人とかもいたので、こういった人たちが調子崩さなければ…と思う今日この頃です。

 

自宅にいることが、ストレスに感じるのはなぜ?

外出自粛のため、基本的には自宅で過ごすような生活を世界中で強いられているなか、どうにもストレスを感じている人が多いですよね。基本インドア派の人も、なぜかこうやって自粛を命じられたり、要請されたりすることによって、家に居続けることに関してうずうずする日々を過ごしているようです。不思議な話。

なぜ、このような現状があるのか、考えようと思います。

 

集団的性質によるもの

社会学的、心理学的、生理学的…いろんな角度から説明される、「ヒトは本来集団で生活する生き物であること」が影響しているんだろうと、すぐさま浮かびますよね。

倫理学的にも、和辻哲郎の「間柄的存在」に表されるように、全く自立した人などいない、と考えられるのが一般的です。

ごく稀ーーに、こうした理屈を捏ねて、「だから、ご飯でも行かない?」というアホがいるんですよぉ〜。

やっちまったなあ。

 

集団から物理的には離れることとなった私たちは、生理的に孤独から不安を感じ、自ずとそわそわ〜っとしてくるんだと思います。これはベタだけど、確実な点。

 

強制的な「新生活」状態

入学、就職といった新生活には、ワクワク感と共に、不安がつきものですよね。自粛生活は、様式は一変するのに、ワクワク感は一切なく、見通しの立たなさがさらに不安を煽ってきます。

ホテルとかで熟睡できないことをイメージしてみると感じ易いと思うのですが、やれ手続きやらなんやらが気になっていない状態でも、変わった環境で生活することは無意識的にもストレスになっているのだろうと思います。

どうも私たちは安心して過ごせる「日常」を求める癖があるので、そうしたことが叶わないのがストレスなのかなと思います。

あと、この生活を自分の意思ではなく「強いられていること」も大きく関係していると思います。

 

メディアが不安を煽る

しかも、家にいることでついつい試聴時間が長くなるテレビ。こいつも危険。社会不安をさらに煽るような「専門家」が多いことが問題。

あんまりこういうことは言いたくないんですけど、たまにふと見たときに「はあ?」と感じることが多々あるので書いちゃいました。

テレビをつけることで、部屋の中はまさに「不安のロウリュウサービス」状態。

これはまさに、不安の煽り運転やー!

 

不安を良い方に使おう

こういった要因から、外出自粛とともに、不安とストレスを抱えに抱えている状態が続いているのだろうと感じます。一番は、見通しの立たなさもありますね。

で、何が言いたいのかというと、不安をバネに、良い方向へと転換するチャンスにしたいということ。

不安に駆られた挙句、自分以外の全てが不潔でウイルスに侵されているのではないかと考えるようになり、汗びっしょりで髪も滑っていることにも気づかず、消毒に一日中とらわれてしまっている人も、少なからずともいると思います。

そうではなく、不安を解消するためにできることを模索すること、これがとってもとっても大事だし、もしかすると私たちの生活の転換点になりうるかもしれないと思います。

SNSでの'Stay at Home'活動、オンライン通話など、物理的には離れていても、ネット上で繋がれる。こうした方法への注目がすごく高まっていて、いろんなサービスが展開され始めている。

「コロナ明け」には、つながり方のシンギュラリティが起こっているかもしれませんね。