こころ と あたま

精神科看護師を経験し、将来は精神科医を目指して今春から医学生になる僕のつぶやきです。概ね私見なのでご承知願います。

文化的活動は非日常のままでいいのか?(1/3)

更新がしばらく途絶えていました。ご無沙汰しております。

大学生活が始まり、レポート課題とアルバイト、オンライン会といった具合で、基本的には家にいながらも、かなり満ち足りた生活を営めています。

久しぶりの大学の講義はかなり面白くて、新たな発見や想像力を掻き立てるものばかりです。その中で特に気に入った物ごとについて、3回に分けて考えていきたいと思います。

ちょっといつもより真面目テイストです。臨場感のために、本文中では常体になります。

 

非日常としての文化的活動が注目を集めている

生産的な活動ばかりが、日常をつくっている現代日本において、文化的活動は非日常、二の次のものである。しかし、経済活動が厳しく制限されている今、自宅でできる、芸術をはじめとする文化的活動に注目が集まるようになってきた。否定的な表現をするならば、経済を止めることでしか、文化的活動に目をつけられなくなっていたのだ。

なぜ文化的活動は、現代日本において二の次、三の次になっていたのか。

 

現代日本の成り立ちにこそ原因がある

近代から現代に至るまでの日本の社会を考えると、いかにして文化的活動が追いやられたかを理解することができる。

封建社会体制を貫いてきた日本は、第二次世界大戦での敗戦により、民主主義社会のペンキを塗られた。その後の高度経済成長期に、短い期間のうちに、「豊か」になる必要があった。それを満たすため、人々は生産性と金銭的な豊かさだけを追い求めるようになった。これらの要素だけが、「日常」として残される事になったのだ。一方で、元来は人間の日常にあり、精神的根幹を支えてきた芸術や儀式、宗教、死といったものは、生産的ではないものとして、排除されるようになった。日本人の根源的欲求は、生産性と金銭的な豊かさにすりかわってしまったのである。

 

生産的でないものは都合が悪い

さらにたちの悪い事に、元来の人間の精神的根幹を支えてきたものたちに対し、「都合の悪いもの」として徹底的に排除しようという、静かな運動が起き続けている。非日常に追いやられたとしても、余暇に癒しを与えてくれたり、亡くなった人をきちんと弔い、見送る側の心をすっきりさせたりすることはできる。欲張りなことに、どうやら誰かがその非日常すらも奪い、日常のみからなる生活にしようと働きかけている。そんな力さえ感じる。

儀式や宗教、芸術については、「異文化で下らないもの」として徹底的に排除しようとする。それぞれが本来もつ、正の要素を味わわせることなく、時に負の様相を呈した時に、徹底的に攻撃する。さもそれらの負の様相が、それらの全てであるという風に解釈を強いてくるのである。

死者を弔うための食人文化をもつクールーの間でプリオン病が流行したこと、新興宗教団体によるテロ事件、そしてライブハウスはウイルスを極めて「効率的」に拡散したこと…こうした出来事は、儀式、宗教、芸術の象徴として刷り込まれるようになったのだ。(続く)