文化的活動は非日常のままでいいのか?(2/3)
昨日の続きです。今日はちょっと極論かもしれません。
根源性欲求と概念性欲求
非日常に追いやられ、さらに非日常からも排除されゆく、そんな「都合の悪いものたち」は、なぜ元来の人間にとって重要だったのかを考えていく。
そこで、これから扱う2種類の欲求について定めておく。ひとつは、根源性欲求。ここでは、人間の無意識のうちにある精神的活発と、それを表現しようとする意欲のことをいうこととする。もうひとつは、概念性欲求。これは根源的欲求の対照的なものとして扱え、根源的欲求によって満たされることがらについて知ることで、意識的に精神的活発を満たしたいと思う欲求のことをいうこととする。いわば、根源性欲求よりも後に得られる、好奇心によりくる表現への意欲だ。
文化的活動は、古代より根源性欲求を満たすものとして日常を添え、極めて感覚的、流動的な「生きること」への解を与え続けていた。
根源性欲求は、もはや感じることができない
しかし、現代の日本社会の中では、その根源性欲求を感じたり、満たしたりすることはできない。理由は先に述べたように、文化的活動は積極的な排除の対象だからだ。この社会の中でも、文化的活動は行えている、という反論もあると思うが、それにより満たされるのはあくまでも概念的欲求なのだ。概念性欲求の源は経験からくる意識的なものなので、「生きること」への解を授かることは残念ながらできない。
根源性欲求を抱くためには、生来からの文化的活動により与えられる、無意識界での欲求の基地を持っていなければならない。
概念性欲求の根源性欲求との相同性と互換性
概念性欲求を満たすことで得られる充足感は、根源性欲求とよく似ている。意識的な部分で受ける感動は、ほとんど相違ないと主観的には見なせ、生活上その違いを気にすることはない。この2つの欲求を区別する必要性はどこにあるのかと、疑問に思う人も多いかもしれない。
違いはただ、無意識の中での欲求か否かだ。概念的欲求を満たせているだけでも、意識下での幸せの中に暮らすことはできるのだ。
重要な性質として、概念性欲求からくる文化的活動は、根源性欲求をもつ他者に根源性欲求を満たすことができる。間に立つ文化的活動は、それ自体が意味を与えるのではなく、受け取る側がそれぞれの欲求に当てはめるのである。